東北地域災害科学研究,32, 213-218.(1996)

1995年兵庫県南部地震における液状化災害
−とくに仁川百合野台の斜面崩壊について−

山形大学教育学部  川辺孝幸

Liquifaction Disasters of the 1995 South Hyogo Earthquake
- Special reference to the origin of
slope collaspe at Nigawa-Yurinodai, Nishinomiya City -

Faculty of Education, Yamagata University Takayuki Kawabe


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I.はじめに

 1995年1月17日午前5時46分に発生した兵庫県南部地震は,マグニチュードが7.2と,それほど大規模な地震ではなかったのにもかかわらず,震源の深さ地下10km足らずの直下型の地震であったため,震源に近い淡路島〜六甲山地南縁〜東縁の阪神間の地域に大きな被害をもたらした.この地震によって高速道路や鉄道の崩壊とともに20万軒をこえる民家が倒壊し,6,300名以上の方々が犠牲になられた.
 これらの地震による被害は,市街地の発達する平野部と背後の六甲山地との境界部に平行な,東北東−西南西方向に伸びる,幅1km前後の帯状の地域に特に顕著に現れた.この山地と平野との境界部には,六甲断層系とよばれる断層帯になっている.今回の地震は,その断層系の地下の構造が活動したためにもたらされたと考えられるが,上述のような”震災の帯(嶋本,1995)”が現れた原因として,市街地の地下に伏在する断層が活動したためか,あるいは,地下深部あるいは地表付近の地質構造の違いを反映して,地域ごとに地震動が異なっていたためであるか,という2つの対立した見解があるが,筆者は,歴史的に断層運動によって成長してきた堆積盆地と交際山地との境界部であること,堆積相が扇状地性堆積物から内湾性堆積物まで狭い範囲に複雑に分布すること,岩盤から層厚2,000mをこえる未固結層(大阪層群)まで地盤を構成する地質=振動特性が急激に変わることなどの点で,堆積盆地の縁辺部,とくに堆積盆地前縁,という地質学的位置そのもののもつ必然性であると考えている(川辺,1995;川辺ほか,1995).
 本報告では,兵庫県南部地震によってもたらされた地質災害のうち,30数名の尊い命が奪われた兵庫県西宮市仁川百合野町阪神水道企業団甲山事業所北斜面の崩壊について,崩壊地の地質と崩壊堆積物の堆積形態を述べ,崩壊が盛土基底部の液状化によってもたらされた結果であることを検討する.


II. 崩壊現場周辺の地質の概要

 崩壊現場を含む阪神水道企業団甲山事業所周辺には,基盤の六甲花崗岩が分布している(第1図).
神戸市水道局上ヶ原浄水場敷地以東には,Ma1海成粘土層を含む鮮新〜更新統の大阪層群下部が,六甲花崗岩をアバットまたはオーバーラップ不整合でおおって,東に緩く傾斜して分布している.浄水場の敷地では,下位から,巨礫大の花崗岩の亜円礫からなる層厚約1mの礫層,層厚約2mのMa1海成粘土層,および層厚5m以上の砂層を主体とする砂礫層が,花崗岩にオーバーラップ不整合で覆っている.浄水場より東側では,大阪層群は,Ma1海成粘土層より下位の,おもに砂層からなる地層が,基盤に対してアバットし,それらを不整合に覆って,上ヶ原面を構成する中位段丘堆積層が分布している.仁川ぞいには低位段丘堆積層が花崗岩および大阪層群を不整合におおって分布している.
 このような地質の状況から,大阪層群下部の堆積当時,この地域は,大阪層群が堆積する平野と,その背後の花崗岩からなる山地との境界付近で,事業所の位置する平坦面は,Ma1海成粘土層を堆積した海が浸入してきたときの海食台であったと考えられる.
 崩壊以前には,用水取水口から約数十m下流の仁川右岸では,六甲花崗岩中に南北方向の破砕帯がみられた(六甲団研,未公表).また,この破砕帯の北方延長にあたる地点の造成地では,1995年2月時点で,基盤の花崗岩中に,大阪層群に不整合に覆われる幅約60cmの破砕帯が観察された(3月に入って擁護壁で観察できなくなった).このようなことから,崩壊現場の基盤の花崗岩中には,この破砕帯が発達していることが推定される.


III. 崩壊現場の盛土の地質

 兵庫県西宮市仁川百合野町阪神水道企業団甲山事業所北斜面の崩壊発生地盤について,崩壊の発生直後には,一部に,大阪層群が高速地滑りを起こしたとする見解があったが,明治以来の地形図(第3図,中川・大阪市立大学「阪神大震災」学術調査団,1995)および航空写真の判読(川辺・六甲団研グループ,1995)や,現地の崩壊現場の地質状況からみて,盛土であることは一目瞭然であり,疑う余地もない(第2図).

1. 盛土の層序
 滑落崖にみられる盛土中には,北側の花崗岩が削られてできた礫まじり粗粒砂と南側の大阪層群起源の海成粘土層やシルト層などのブロックを含む粘土質な部分とチャートなどの玉石を含む砂質な部分がある.これらの堆積物はブロック状になりながらも成層構造をつくっている.滑落崖で観察できる限り,盛土の大部分は,花崗岩質で,円磨度の低い礫まじり砂からなる.
 滑落崖東側斜面には,現地形よりやや急傾斜で,下位から,海成粘土層のブロックを主体とする層,シルトブロックを主体とする層,礫まじり砂を主体とする層が重なる.さらに,これらを不整合におおって,礫まじり砂を主体とする地層がほぼ水平に重なり,最上部に,道路や建物などの構造物の基礎が重なる.
2. 盛土と旧表土の不整合
 崩壊の中心部の滑落崖基部では,盛土と盛土以前の旧表土およびその直下の地層との不整合が観察できる.この部分では,下位から,黄褐色を示す層さ50cm以上の花崗岩質礫まじり粗粒砂層,松葉や枝などを含む厚さ0〜20cm腐植土層があり,それらをおおって盛土層が重なる.盛土層は,花崗岩質礫まじり砂層で,不整合面直上では,基質が青灰色を示すシルトからなり,多量の水を含んでいる.また,厚さ数mmから2cm前後のすべり面が数枚認められ,一部は腐植土層を巻き込んでスランプ状に変形している部分もある.
3. 盛土と基盤の不整合の形態
 盛土の下底面の形態は,盛土以前の空中写真からは,西縁が急崖をなしており,それより河床側には,低位段丘堆積層の堆積面と,その上位に重なる上記急崖からの崖錐堆積物の堆積面とおもわれる緩斜面が発達していたことがわかる.
 ただ,今回崩壊した部分には,現在の仁川の流下方向=盛土斜面に平行に南下する2本の谷がこの緩斜面を削り込んで発達している.このため,崩壊した部分では,下底面の高度は仁川に沿う側が高く,西側が低いという特徴がある.崩壊現場より南側には,特にこのような谷筋は見当たらない.
4. 崩壊以前の盛土表面の形態
 1950年代半ばに造成された盛土斜面は,1961年撮影の空中写真と1974年撮影の空中写真を比較すると,この間に再度盛土がおこなわれていることがわかる.
 さらに,1974年撮影の空中写真では,今回崩壊した部分と今回崩壊しなかった部分の北部は,斜面に斜面下側に開く円弧状の外形をもつ浅い凹みがみられる.そして凹み下部の植生は周囲に比べて,よく繁茂していることが読み取れる.
 このことから,今回の地震による崩壊の以前から,地滑りが進行していたことが読み取れる.


IV. 崩壊堆積物の堆積形態

 上述の盛土の層序をもとに,崩積堆積物中の岩相分布を調査した(各記載地点は,第4図に示す).
1.崩壊地域
 盛土上部から地表を構成する堆積物・人工構造物の破片が,土砂状あるいはブロック状で移動していない盛土最下部の青灰色の花崗岩質砂層を覆って分布する.ブロックのほとんどは,下部を流下側に向けて堆積している.構造物の基礎杭も同様に,流下側に下端を向けて流下方向と平行な方向に長軸を向けて分布している.
2.崩壊地域からやや仁川側に下った低位段丘堆積層の分布域
 調査時点では,この部分では,ほとんどの堆積物が被災者の捜索および復旧によって排除されていたために,全体像については不明であるが,排除され残された崩壊堆積物下部については部分的に観察できた.層厚約10〜50cmの,青灰色の花崗岩質砂層が,地表面を直接覆って分布し,その上位に,盛土下部〜上部の花崗岩質砂礫層起源の土砂が不規則に盛土ブロックを含んで重なる.基底部の青灰色花崗岩質砂層は,シルト質細粒砂から粗粒砂まで,情報粗粒化を示しており,平行葉理もしくはディッシュ構造などの堆積構造が観察される.
3.盛土末端部を横切っていた用水路の中
 基底部の青灰色花崗岩質砂層が埋積している.この地点の南西側では,盛土最下部に滑り面を伴った青灰色花崗岩質砂層が分布している(第5図).

4.仁川河床部
 最下部に,青灰色花崗岩質砂が数10〜1m前後の厚さで,河床堆積物を覆って分布し,その上位に数mの厚さで,盛土上部起源の土砂およびブロックを不規則に含んでいる.ブロックは崩壊堆積物の上部ほど大きく,かつ多く含まれている.
5.崩壊地域正面の左岸の崖付近
 層厚約1mの崩壊堆積物が観察できたが,ここでは,盛土のブロックを主体とする堆積物からなるが,やはり,上方ほど大きいブロックが多く含まれている.この部分の下部には,盛土最下部からその下位の腐植土層を伴う一連のサクセッションをもつブロックも認められる.
6.左岸の崩壊地域の正面に建っていたマンションの壁
 黄褐色を示す飛沫状の痕やブロックの当たった痕が見られる.後者は,放射状に伸びる短い陵をつくって土砂がへばりついており,乾燥した状態であることがわかる.前者は後者によって覆われており,最初に液体状の土砂が,ついで乾燥した土砂ブロックがぶつかったことを示している.
7.仁川下流やその左岸にある道路で見られる崩壊堆積物の末端
 土砂をともなう乾燥した盛土ブロックを主体とする堆積物が20〜40°の末端斜面をつくっている.


V. 崩壊の過程の復元

 以上のように,崩壊堆積物中では,盛土基底部を構成する青灰色花崗岩質砂を主体とする下部と,盛土上部のブロックおよび土砂を主体とする上部に分けることができる(第6図).
 崩壊堆積物下部の青灰色花崗岩質砂は,崩壊以前の分布域には堆積せず,ほとんどが河床付近に堆積していること,平行葉理やディシュストラクチャーなどの堆積構造が認められること,建物にぶつかった時点で飛沫をあげていることなどから,水分を多量に含んだ流体として,高速に移動したことが推定できる.そして,崩壊堆積物の下部を構成していることから,崩壊の初期に,盛土上部より先に流れ出したことがわかる.
 盛土上部は,盛土下部が先に流出し始めたため,足元をすくわれるかたちで滑落していったと推定できる.
 滑落崖からは,ほぼこの不整合面と思われるあたりから,毎分1リットル前後の湧水が認められたが,おそらく,盛土造成以前から,花崗岩中に発達している破砕帯から湧出しており,その結果として,盛土以前の空中写真に見られる谷がつくられたと考えられる.そして,このような破砕帯からの湧水の多い部分で,地形的にも滞水しやすい地形上に盛土をおこなったため,盛土当初から,地下水を充分に滞水しておりルーズな状態が維持された.そして,今回の地震動によって,液状化を起こした結果,斜面崩壊をもたらす原因となったと考えられる.
 ちなみに,同じ一連の盛土でも,旧地形でみられる谷より南東側の盛土は,ほぼ同様な厚さで盛られているにもかかわらず,崩壊を起こしていない.おそらく地下水が滞水していたかそうでないかの違いであると思われる.


VI.まとめ

 地形図から推定された造成による盛土によって,もとの木が生えていた地形を埋められていたことを実際に確認することができた.浄水場の造成時(昭和30年前後)に,当時の谷地形を盛土によって埋め立て,現在(崩壊以前)の地形が形成された.この盛土の下底部に,崩壊部分では盛土下底面の形態によって滞水しやすい条件のもとで,断層破砕帯から湧出する地下水が,かなりの長期にわたって浸透していたためにルーズな状態で水を多量に含でいた.この部分には,すべり粘土がみられることから,今回の崩壊以前にも地すべりがおこっていて,1974年撮影の空中写真に示される盛土斜面の形態から,盛土が動いていたと考えられる.そして,今回の地震の振動によって,盛土下底部の地下水を含んだ部分が液状化して先に流出し,その後.足もとをすくわれるかたちで盛土全体が崩壊したと考えられる.
 今回の斜面崩壊では,地下水が重要な役割を握っていたと推定できる.六甲山麓には多くの盛土地盤があるが,今回の地震によってそれら全部が崩壊したわけではない.また崩壊をおこした部分では,多くの場合,湧水が認められる(地質ボランティア,1995,藤田ほか,1996),盛土部では,地下水の管理が重要であることを,今回の災害は示している.


文 献

地質ボランティア(1995)あなたもできる地震対策.68p.,せせらぎ出版,大阪.
藤田至則・川辺孝幸・角田史雄・山岸猪久馬・熊井久雄・高野武男・野村 哲・野田貴洋・斎藤明郎・斎藤辰馬(1996,1)芦屋川流域の市街地における地震災害−液状化災害の防災に関する提言−.柴崎達雄・植村 武・吉村尚久編『大震災 そのとき地質家は何をしたか』,43-68,東海大学出版会,339p., 東京.
川辺孝幸(1995,7)兵庫県南における災害の第四紀学的要因:地団研専報(フォト),地団研専報,no.43, 1-4.
川辺孝幸・藤田至則・山岸猪久馬(1995, 7)島弧変動から部地震みた地震発生の要因−マグマによる地震発生の要因に関する試論.地団研専報,no.43, 5-34.
川辺孝幸・六甲団体研究グループ(1995,4)1995年兵庫県南部地震にともなう西宮市仁川百合野町の斜面災害について.日本地質学会第101回学術大会特別ポスターセッション予稿集,10.
中川康一・大阪市立大学「阪神大震災」学術調査団(1995)大阪周辺での震害と地盤構造.「阪神大震災」緊急合同報告会資料集,日本地質学会ほか,92-108.